高千穂土地改良区の歴史

高千穂土地改良区の歴史について

1.福嶋辰弥

 山また山の高千穂でも、今では山の斜面に田んぼがあり、ほとんどの地域で米作りが行われています。

 今からおよそ150年くらい前に(江戸時代の終わり頃)高千穂の川登地区や三田井地区では、馬の背に水おけを乗せ、岩戸川まで往復4キロメートルも、飲み水をくみに行っていました。

文政8年(1825年)9月9日、大字三田井中川登に生まれた福嶋辰弥は、自分の住んでいる地域の人々が、水不足で困っていることに、いつも心を痛めていました。水がないため、この地域では米を満足に作ることができなかったのです。何とか水を引いて米を作りたい。これが福嶋辰弥の願いでもありました。

 嘉永年間(1848年~1853年)福嶋辰弥は有志とともに用水路作りを計画しましたが、無理だというものが多く、計画を進めることはできませんでした。しかしながら、福嶋辰弥は用水路作りの計画を、どうしてもあきらめることができませんでした。温厚で人々から信頼の厚かった福嶋辰弥は、人々の説得にあたりました。

 明治2年(1869年)福嶋辰弥が44歳の時、下川登の興梠森蔵と志を同じくして共に用水路作りを進めることになりました。福嶋辰弥と興梠森蔵は、実地調査を延岡藩庁に求める一方、村民を説得して回りました。しかしながら、村民はあまりお金が掛かりすぎるし、難しい工事であったために、賛成するものが少なく、話し合いはまとまりませんでした。

 福嶋辰弥は、興梠森蔵とともに、人々を頼らず、自分たちの労力と資金で用水路を作ろうと考えました。福嶋辰弥らの熱心な説得に、その後83名の同意者を得ることができました。

 福嶋辰弥は、水源を2ヶ所考えていました。1つは土呂久川、もう一つは吐の瀬でした。しかしながら、吐の瀬は遠く、途中田原村、上野村を通過しなければならないので、あきらめざるを得ませんでした。

 福嶋辰弥らは、用水路着工にあたり、工事の詳しい設計図を作成し、すぐ工事にあたりましたが、すでに、明治23年(1890年)、福嶋辰弥は65歳になっていました。着工にあたっては、反対者の嘲笑や罵倒は、大変なものでありました。

 用水路作りを計画して40数年の月日が過ぎていました。起工式をして8年、明治28年(1895年)に至って、ようやく16キロメートルに及ぶ水路を完成することができました。同士の興梠森蔵は、完成の喜びを待たずして、2年前に亡くなっていました。

 この用水路完成のおかげで、何と今までの500倍もの田を広げることができました。この計画に反対していた村民はただただあやまるだけでした。

2.用水路作り

 福嶋辰弥らが、どのように用水路工事を行ったか、また、いかに難工事であったのかは何分、工事の様子を記録したのもが何も残っていないため、想像するしかない現状です。

 福嶋辰弥らの作った岩川用水路は延長16キロメートルにもおよぶのです。山また山の高千穂という地形を考えると、工事は想像を絶する大変なものだったのではないでしょうか。

(1)水源地

 水源地については、川登、三田井地区より高い場所で、水量がある程度あるところでなければなりません。吐の瀬と土呂久川の2ヶ所が選ばれましたが、距離的なことも考え、土呂久川に決めました。

 土呂久の畑中あたりは、川に豊富な山の湧き水も流れ込んでいます。

 水を取り入れるにあたり、流れをかえさせるには、近くの山から石を切り出したり、近くの川原の石を積んだりして、行ったようです。

大雨の場合、かなり水量が増すため木で枠を作って調整していました。

 なお、水源地周辺の住民は、福嶋辰弥の説得をよく理解し、土地の提供についても協力的だったといいます。

(2)測量

 当時は、土地を測量するにあたり、大した器具もなく、簡単な道具を使って、あとは勘を頼りに行われたようです。しかしながら、大変正確であったといいます。

  • 一升ます

ますに水を入れ、水平な状態を測量に利用した。

  • トンボ

ハガキ大の紙と木の枝を使って、土地の傾斜を測っていた。

(3)工事費

 工事は、測量も含め、約10年もの長期にわたるものでありました。人手は、延べ2万人を費やしたといわれています。工事費は当時のお金で3,000円余りかかったようです。お金については、福嶋辰弥や興梠森蔵が私費を投じたわけですが、工事が進むにつれて、周辺の村人からも少しずつ理解者がでてきました。卵やとうきびなど、品物を提供するものもいました。また、同士となった人たちは、無賃で作業に参加したということです。

(4)トンネル

 工事にあたり、山の多い当地ではどうしても、トンネルを掘って水を通す必要がありました。トンネルの数は、10本近くもあります。長いトンネルは2本、そのうち1本は300メートルにもおよぶものです。山を掘っていて、障害にぶちあたった場合は、遠回りを掘っていた様です。そのため、トンネルはまっすぐではなく、くにゃくにゃと曲がっています。20~30メートルのトンネルは5本くらいあるということです。

(5)水路橋

 16キロメートルある用水路の途中2ヶ所に、水路橋といわれる橋があります。水路橋は大きな石を掘って橋にし、その上を用水路の水が流れています。

(6)水車

 用水路に水が流れると同時に、8ヶ所に水車が作られました。水車ができたことで、人々は穀物を粉にするのに、人手が省け便利になりました。今はもうなにも残っていません。いまから40年ほど前に、最後の水車も壊されました。尾谷地区に1ヶ所小屋のみが残っています。

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更新日:2019年04月03日